EDITION88×越智一裕 インタビュー
『マジンガーZ 50 周年』と『スーパーロボット&ヒーローART WORKS 越智一裕画集』(玄光社刊)の発売を記念した越智一裕先生初の画展が、昨年9月東京で開催されました。2023年3月には名古屋での開催も決定しています。これを記念し越智先生には、画集出版、絵のお仕事、そして作品の版画化についての順にお話をお伺いしました。
画集について
画集出版は最初にどのようなお話があったのでしょうか?
2021年の6月に『永井豪70'sアニメ大解剖』(三栄刊)という本の編集を担当されていたスパイスコミニケーションズの湯浅裕行さんから、巻頭にマジンガーZのDVDジャケットのイラストを数枚掲載させてほしいというご相談をいただいたんです。それはいいんですが、僕としてはいつか自分の画集を出したいという思いがあったので、先にそういう使い方をして消費してしまう事に対してどうしようかなと迷っていたんですが、その際に湯浅さんが画集の企画の件、ちょっと動いてみますよと言って下さったんです。僕は社交辞令だろうと思っていたのですが、本当に玄光社さんに話をもっていってくれて、9月上旬には画集の出版が決まっていました。
画集の一番のみどころ、そして大変だったところはどこでしょうか?
みどころは、やはり20年に渡って描かせていただいてきた数多くのヒーローたちのイラストを画集として出版していただけたことそのものです。
巻頭に永井豪先生からの推薦文を頂戴できたことも感無量でしたね。
大変だったのはコロナ禍もあって直接の打ち合わせがなかなか出来なかったり、イラストを新規に何枚も描き下ろしたり、加筆したり…
あとは企画ページの構成から文章の執筆まで自分で担当したりしたことですかね。
やらなきゃいいのに余計なことをしたがる性格なんですよね(笑)
それは大変なんだけれど楽しい部分でもあるし、結局僕は全部自分でやらないと納得できないめんどくさい性格なので。。。
既存のイラストにも加筆されているということですか?
そのまま掲載したものがほとんどですが、どうしても気に入らなくて画集用に加筆したものが何点かありますね。
画集でよくあるのは巻末にサムネイルみたいなものをつけてコメントが載るパターンですけど、あれは照らし合わせて読むのが大変なんですよ。
打ち合わせの中で玄光社さんがコメントは絵の横に入れましょうって言って下さったので、自分で全部のコメントを書き上げました。
絵の仕事について
アニメーターを目指すきっかけ、絵の仕事をするきっかけを教えて下さい。
僕は高校1年の1学期しかちゃんと高校に通っていないんです。夏休み明けの2学期からはたまに気が向いたら通う程度で…(笑)
とにかくアニメーターになりたいという思い込みが強くて、何度も上京して出版社やアニメスタジオに出向いて就活を始めていたんです。
当時はまだ15歳でした。
最初は「科学忍者隊ガッチャマン」が好きでタツノコプロに入りたかったんですよ。1977年9月にはじめて上京した際にはアポなしで国分寺の駅前の公衆電話から電話帳で調べてタツノコプロに電話したんですが…なんという事かその日は吉田竜夫さんがお亡くなりになった日で…会社は当然バタバタで対応していただく時間もなく、その日は打ちひしがれて終電で岐阜に帰りました。
郷里の岐阜ではその時期に「無敵超人ザンボット3」の本放送と「大空魔竜ガイキング」の再放送が同時期にやっていたんですよ。明らかに通常の回とは異質な劇画タッチの作画の回がどっちにもあって(笑)
エンディングを確認すると、どちらにも金田伊功とクレジットされていて確信しました。
その作画はもう自分にとっては衝撃的で、一気に傾倒しましたね。
その後、アニメーターになるための手立てもなく途方に暮れていたのですが、日本サンライズで「超電磁マシーン ボルテスV」の監督をされていた長浜忠夫監督宛にアニメーターになりたいのですという思いを綴った手紙を書いたところ、一度見学にいらっしゃいとお返事をくださったんです。それを真に受けてまた上京して当時上井草にあったスタジオを尋ねました。
その際にチーフアニメーターの金山明博さんをご紹介いただき、金田伊功さんが好きなんですという話をしたら、ボルテスVのオープニングアニメは金田さんにやってもらったんだよとスタジオの電話番号まで教えて下さったんですよ。
ただ、金田さんにいきなり連絡をすることも出来ず…
その時はそれで終わりでした。
その後、アニメーターになるための打開策は見つからないまま半年ほどが経過したある日の事…手にした「テレビランド」1978年8月号(発売日は6月末)に掲載されていた新番組「宇宙魔神ダイケンゴー」の特集ページ!
それを見てを見てビビッと来たんでしょうね。
即、編集部に電話して事情を説明して制作会社の電話番号を聞いたんですよ。
今では考えられませんけれど教えて下さったんですよね。
すぐにそのスタジオに電話したのですが、じゃあ一度いらっしゃいという話になり…
そこからはトントン拍子で就職が決まり…7月中旬には紙袋二つに着替えを詰めただけの荷物で上京しました。
そのスタジオが、当初入りたかったタツノコプロのスタッフの方たちが独立して作られた会社だったのも不思議なご縁でした。
当初はアパートも借りられなかったので、最初の数か月はスタジオの押入れで寝泊まりしていましたね。
こうして就職が決まって、アニメーターの第一歩を踏み出せた時点で、やっと金田伊功さんに電話して会っていただきました。
その間、何度か金田さんのところに遊びに行っているうちに、じゃあ、うちでやってみるって言ってもらえて、半年間在籍した会社をやめて面倒を見ていただける事になりました。
だから僕は専門学校とかには全く通ってないですね。
子供のころから絵は上手だったのですか?
いやいや、全然普通です。好きでしたけど、学校で美術が一番とかそういうことは全くなかったです。当時はまだアニメブームの前で、アニメは子供が見るものという時代でした。それでも「テレビマガジン」や「冒険王」などのいわゆる児童誌や「超合金」などの玩具を中学生になっても隠れて買い続けたりと、好きなものに関する情報や知識は独学ですごい吸収していましたね。それが今になって大いに役に立っています(笑)
本格的に絵を描き始めたのは上京してからですか?
そうですね。僕は高校を中退してアニメーターを目指してなかったら、たぶんアニメーターにはなれていなかったと思います。
その後すぐにアニメブームが始まって、多くの絵の上手い人たちがアニメーターを目指すようになって、そうするとライバルは激増するし専門学校が必須になったりしましたから。
そういう意味では、あのタイミングだったから良かったんだろうなって。
自分の人生、それで本当に良かったのかどうかはわからないですけど(笑)。
我ながらよく45年も絵描きを続けられて来られたなと思います。
自分の才能を信じて、この厳しい世界へ飛び込んだように思っていました。
好きなだけ、思い込みだけでやっていました。
いのまたむつみさんがキャラクターデザインを担当された「魔境伝説アクロバンチ」の時も絵がまったく描けなかったし、作画監督を初めてやったときの映像はひどいものでした。
いのまたさんとはその少し後に知り合って、カナメプロで「さすがの猿飛」や「プラレス3四郎」などの作品を一緒にやらせてもらいました。いのまたさんの絵を見て、キャラをちゃんと描けないとダメだなと思い知りましたね。
その後は少しづつキャラクターも描けるようになっていったのではと思います(笑)
いわゆる首を傾けて手首を折って両腕を広げた「金田ボーズ」や、ガニマタでジャンプする「金田飛び」などの師匠の模倣はこの時期に卒業しました。
永井豪先生のキャラクターを描くお仕事のきっかけを教えて下さい。
1990~94年に「コズミック・ファンタジー」をやっていた頃にお付き合いのあった徳間書店インターメディアの方から、うちでクリックまんがというプレイステーションで見るデジタルコミックのシリーズを始めるのですがいかがですかと声をかけていただいたのが98年だっと思います。その際に、子供のころからずっと好きだったのに仕事としてのご縁がなかった永井豪先生の作品をやりたいと希望して「ダイナミックロボット大戦」というタイトルがスタートしました。しかし2巻までリリースした時点で会社の解散が決まってシリーズ全体が打ち切りになってしまったんです。
その数年後、ダイナミックプロさんからリベンジしてみないかと声かけていただき、当時はまだ珍しかったweb漫画として「ダイナミックヒーローズ」を月刊ペースで約3年連載して完結させました。
豪先生のキャラクターを描くときに気をつけていることは?
厳密にいうと、僕の描いているのは豪先生の絵じゃないんですよ。
アニメの絵のいいとこどりを再現しているっていうのかな。
ただ昔の絵をそのままトレースしても、古いだけになっちゃうので、一回自分で消化した上で、いいとこ取りして描くっていうのが大変ですね。
純粋なファン目線で言うと先生の絵は、僕がアニメで観ていたのはこれだ!という印象があるのですが、そのような背景があったのですね。
実はアニメと比べると、全然似ていないんですよ。つまり似せている風にしてるだけなんです。50年も経つと見ていた人の脳内で印象が変化しているんですよね。色んな要素でその人その人でイメージが違うので、とりあえず僕のイメージでアウトプットしていますが、当時見ていた人のイメージをなるべく壊さないようにとても神経を使って描いています。
アニメの仕事とパッケージやジャケットのイラストの仕事との一番の違いは何でしょうか?
僕はアニメの仕事から画業を始めましたが、根本的にアニメの仕事に全く向いていないんですよね。
結局自分で全部やらないと気が済まないんですよ。
昔はアニメもまだそういう作り方が許されていました。
しかし今のアニメは作り方が全然変わってしまいましたから…僕にはもう無理ですね。
だから個人で作業を完結できる漫画やイラストを描く今の仕事が自分には合っていますね。
パッケージやジャケットのイラストの場合、ポーズや構図の指定は入るのですか?
入らないです。基本的にはおまかせでやらせてもらっています。
少なくとも70年代の作品に関しては人並み以上の知識があると思うので、指示されなくても何を描けば良いのかというツボはわかるんですよね。
これから描いてみたい作品はありますか?
70年代のロボットSFアニメに関しては公式イラストとしてほぼ描かせていただいたのですが、まだ描いてない作品が何作品か残っていて…
それをコンプリートしたいなっていうのはありますね。
版画化について
画展に合わせてマジンガーZのイラストを描き下ろしていただきましたが、一番苦労したところはどこでしょうか?
キャラクターをバランス良く配置するのが一番大変でしたね。周りの機械獣も同じ色のものが近くに来ないようにとか、色々考えて配置しなければいけないので。
絵描きってラフを描くときに、まるちょん(顔を丸、真ん中に点を描いたもの)しか描かない人も多いじゃないですか。僕も忙しい時はまるちょんでやることもあるんですけど、その後苦労するんですよね。だから大変だと思っても、ラフの段階である程度描いたほうが良いと思っています。
今回版画化するのに過去のイラストを描き直していますよね。
せっかくの版画化なので、全部じゃないですがキャラクターはかなり手直ししましたね。このシリーズの元々のイラストは2005年に欧州で出版された桜多吾作先生のコミカライズのカバーイラストとして描いたものです。
この「マジンガー、わがマシン」はマジンガーZと兜甲児、ホバーパイルダーをバランス含めて全部描き直しています。
「愛ある限り…」は、弓さやかをまるっと描き直しました。
さやかを描く角度や表情も変えていますし、他のキャラクター含めて全体の配置やバランス、そして背景も変えました。
こちらの「ゆけ!宇宙の熱血児」では甲児を描き直しています。
「戦え!宇宙の王者」は、フランスで切手にもなっているので、あまりいじらないほうがいいかなと思ったのですが、解像度の問題もあってデュークの顔の部分を修正しています。あと元々のイラストに描いてあった闇の帝王はコミカライズでは描かれていたのですが、本来グレンダイザーには登場しませんのでベガ大王に差し替えました。
フランスではマジンガーZよりグレンダイザーが人気だと聞きます。グレンダイザーの人気の秘密は何だと思いますか?
放送の順番が大きいのではと。最初にグレンダイザーを放送してかなりの高視聴率だったという事と、やっぱり、物語自体がちょっと欧州風の王族の話なので。中東でも人気ですね。
欧州ではグレンダイザーの後、マジンガーZを放送しているので、時系列が繋がらなくなっているらしいんですよね。
ヒカルオンのイラストについて教えて下さい。
当時の宣伝用のポスターで、36年前に描いたセル画のイラストです。
今はもうこの絵は描けないですね。これと本編の映像も違いますしね。
アニメーターはキャラクター設定に合わせようとするじゃないですか。でもキャラクターデザイナーという立場だと、デザインが自分の中でどんどん先に進んでいくので、どの作品もキャラクターデザイナーの描く絵が最終的に一番似なくなるっていうパターンですね(笑)。
今日は沢山のお話をお聞かせいただきありがとうございました!
2023年3月21日(火)より「スーパーロボット&ヒーローの世界 越智一裕画展」が松坂屋名古屋店にて開催決定🎉